室町時代より受け継がれる本門法華の寺院。本門法華宗 光照山 蓮静寺

蓮静寺の縁起

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蓮静寺の縁起

 光照山蓮静寺は古来より富士山麓地方における本門法華正法流布(ほんもんほっけしょうぼうるふ)の道場として重んじられ、當山開基日朝聖人(とうざんかいきにっちょうしょうにん)より御歴代の先師先上人(せんしせんしょうにん)並びに、檀信徒各家(だんしんとかっけ)のご先祖様の信心のお蔭で今日まで護寺(ごじ)されてきました。

當山の開基日朝聖人(かいきにっちょうしょうにん)は宗門の法運中興(ほううんちゅうこう)と称され、そのご法積(ほうせき)は今日伝え聞くところによりますと、日朝聖人(にっちょうしょうにん)は現在の静岡県沼津市岡宮、法華宗本門流(ほっけしゅうほんもんりゅう)、大本山光長寺(だいほんざんこうちょうじ)様を中心として当時、布教の為に駿河・甲斐の国を往来、ご自身にて数ヶ寺を建立し、衆生教化(しゅじょうきょうけ)・教線流布(きょうせんるふ)、子弟の育成等にそのご生涯を捧げられたと伝えられております。

開創当時(応永18年・1411)の蓮静寺(れんじょうじ)は、現在の静岡県御殿場市北久原地区に法華道場(ほっけどうじょう)を構え、開基日朝聖人(かいきにっちょうしょうにん)以降は御直弟(ごじきてい)の日明上人(にちみょうしょうにん)・日壽上人(にちじゅしょうにん)が努められ、蓮静寺の基盤をつくり、この北駿地方(ほくすんちほう)の布教に力を注がれたと思われます。しかしながら以降の蓮静寺の歩みも決して順調なものではなく、戦国時代における北条・武田の戦乱の中、天候不順による飢饉などにより当時の寺院運営は困難であったようです。

また、そのような状況の中、宝永4年(1707)には後の『宝永の大噴火』といわれる大規模な自然災害が発生致しました。この災害により北駿地方一円は焼砂の荒野と化し、當山の境内も6尺余りの焼砂が隆積し建物等も甚大な被害を受けたと伝えられております。しかしこのような状況の中にあっても、お寺の過去帳や曼陀羅御本尊(まんだらごほんぞん)の寺宝を護り後世に残した先師先上人(せんしせんしょうにん)や当時の檀信徒の方々の信心の力には深く感銘を受け、報恩感謝(ほうおんかんしゃ)の思いが絶えません。

宝永の大噴火以降、被災した地域一帯は地域住民の力と、当時の幕府の支援により少しずつ復興が進んでいった模様ではありますが、当時は現在とは違い機械や重機も無く、すべてが人の力によるものであったことを思うと、その大変さが想像以上のものであると推察できます。

このような地域の復興の兆しが見えた中、宝永の大噴火以降念願であった本堂再建を発願(ほつがん)したのが、當山の中興・蓮静寺17世日元上人(にちげんしょうにん)であります。その後、日元上人(にちげんしょうにん)は当時の檀信徒と共に総力を挙げて、約5年の歳月をかけて本堂を現在の地に再建されました。時に宝暦4年(1754)、宝永の大噴火より47年後の本堂再建でありました。
以降、蓮静寺は御歴代上人のご尽力により現在の第33世の住職まで法脈(ほうみゃく)を継承し、現在は本門法華宗単立寺院として寺院運営がなされております。

また、近年においての伽藍の修復・改修・新築等の事業としては、昭和期には、本堂は2度の屋根の葺き替えをし、その他鐘楼堂の再建、昭和53年には客殿が完成致しました。また、平成9年から平成12年にかけ、『宗祖立教開宗750年慶讃事業』として、本堂の耐震・改修工事、庫裡の新築工事、山門・宝蔵庫・客殿改修工事、境内整備工事等が行われ、平成14年5月18日に『宗祖立教開宗750年慶讃法要併、住職入退山式』を修行致しました。

また現、住職よりの事業として『蓮静寺開創600年慶讃事業』を発願、平成18年に境内新墓地の造成。平成22年、境内駐車場整備及び境内旧墓地水屋の改修。同年、蓮静寺旧寺族墓地改修。平成23年永代供養墓完成。同年、本堂、御宝前・内陣天井・内外陣彩色・位牌堂等の修復・改修工事が完了し、當山開創600年の慶讃事業とさせて頂き、平成23年11月6日、當山有縁の各御寺院様、當山檀信徒各位の臨席のもと、『光照山蓮静寺開創600年慶讃大法要』を修行させて頂きました。

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